メンバー増殖〜夢のステージへ

バンド結成2年目の3月
教員にとっては避けて通ることのできない人事異動により、キーボードのまれすけが転勤
ただ不思議と脱退という動きにはなりませんでした
きっと「こんな楽しい事やめらんねぇよ」って感じだったんでしょう

そして4月
稲荷山養護学校にひとりの男が赴任してきました
ママ・TNTと同じクラスの担当となった彼がギターを弾く事がわかった瞬間、
おひさまバンドへの加入も決定しました
彼の名前は”すばりすと”
スバル社のクルマを心から愛する人をスバリストと呼ぶのですが、
彼の愛車ももちろんスバル レガシィ
教員らしからぬ大砲のようなマフラーから吐き出される「ドコドコ音」は正に
スバリストの会員証のようなものです。

こうしておひさまバンドは6人編成の現体制が完成したのです


翌年おひさまバンドに夢のような話が舞い込みました
奈良県の福祉団体が全国を回りながら開催するわたぼうしコンサートが
この年に長野市で開催される事になったのです
わたぼうしコンサートとは、地域で暮らす障がいを持った方々が書いた詞に、
開催地周辺で活動するアマチュアバンドが曲を付けて発表するものです
舞台はアマチュアバンドにとっては夢のステージ
長野県民文化会館 大ホール

おひさまバンドに任された詞は諏訪市の霧ケ峰療護園で暮らしておられる
西村三千男さんが作った「ファミレスはぼくのオアシス」
電動車いすに乗って実家近所のファミレスに行き、
そこで働くウェートレスさんに恋をする・・・という内容でした。

この詞に付ける曲は、今回のステージのオファーを受けた
バリ姉さんのご主人が創ってくれました

目標がないと練習もせずにダラダラしているおひさまバンドですが、
いざ目標が決まると結束するのがこのバンドのいいところ
夢のステージに向けて練習していると、ひとりの可愛らしいお嬢さんが
体育館に入ってきました。
事前に信越放送が取材に来る事は聞いていましたが、私の考える取材クルーは、
ガタイのいいカメラマン・髪の毛を後ろで束ねた無精ひげの音声さん・
そして額の汗を湿ったハンカチで拭きながらインタビューする記者さんの編成だったので、
この可愛いお姉さんで大丈夫なの?といささか拍子抜けしたのです。
この記者さんが、おひさまバンドの将来に大きな変化をもたらす事になるのです

そして迎えたわたぼうしコンサート当日
あの歌手が、あの俳優が、パフォーマンスを繰り広げた夢のステージで、
おひさまバンドも地に足がつかない状態で演奏を終えたのです。
大事な舞台でスティックを飛ばす悪い癖が始まったのはこのステージからでした



つづく
おひさまバンド誕生〜創生期

2000年の春のことでした
私(わくわく)の長男が入学した、千曲市の稲荷山養護学校での担任の先生(ママ)が
我が家に家庭訪問にやってきました
入学したばかりの大切な家庭訪問なのに学校の事はそこそこに
ママと私の家内の話題は意外な方向に向かいます。
部屋の片隅に置いてあった私のスティックを見てママが「誰かドラムやってるの?」
「あ〜それはウチの旦那のです。昔バンドをやっていたから」と家内
するとママが「私も学生時代にはバンドやってたんだよ」と・・・

今となってはどっちが言い始めた事なのかは定かではありませんが
ママは学校に戻るや、楽器のできそうな職員に声をかけました
そこで集められたメンバーがギターのTNT・キーボードのまれすけ・ベースのバリ姉さん
担当楽器は決まったものの、ベースのバリ姉さんはベースには触れた事もない状態でした
ともあれ、教員たちと保護者による、バンドらしきものがこの世に生を受けたのであります

バンド名はこれまた安直に決められました
養護学校のカリキュラムの中に「おひさまの時間」というものがあって
先生がいろんなキャラに扮して子供たちと歌うという授業があり
そこから「おひさまバンド」というなんだかなぁ・・・なバンド名が命名されました

おひさまバンドが始めて人前で演奏する舞台は稲荷山養護学校の学校祭である「稲養祭」
10月に行われる初ステージに向けて仕上げた曲は・・・3曲
今にして思えばとても人様にお聞かせするような内容ではありませんでしたが
子供達は瞳を輝かせて私たちの演奏に耳を傾け、一緒に唄い踊ってくれました

結局のところ、これに味をしめてしまったんですね
おひさまバンドの今日につながる原点とな


●おひさまバンドってなんなの?●